関脇の貴景勝が、新大関に昇進することになりました。
子供の頃、体の小さかった少年が、目指していた夢への実現の第一歩を踏み出しました!
この成功の陰には、貴信少年が小さな頃からその可能性を信じて、厳しく、また優しく支え続けた両親の姿がありました。
そんな父・一哉さん(57才)と、母・純子さん(52才)の、息子に向けた思いをご紹介していきたいと思います。(スポーツ報知手記より)
厳しくも息子の可能性を信じ続けた父・一哉さんの思いは?
大関昇進が決定的と聞き、嬉しい。
平成で身長170㎝台初の大関を見てみたかった。
これで背が小さい力士も勇気付くと思う。
貴信の活躍で、たくさんの人が喜んでくれている。ありがたいことです。
昔から、夫婦2人で教育熱心でした。貴信にはずば抜けた運動神経と闘争心があったから、私は勉強して大学に行くのはもったいないと思った。
イチロー選手や大谷翔平選手が一般企業に就職してもと思うんですよ。
相撲を始めるからには、じゃあ横綱、大関を目指そうと。
子供には思い切った事をやらせたいと思っていました。
スポーツと勉強で、教育方針は家内と真逆で、よく夫婦喧嘩もしました。
小学校は(私学の)仁川学院小でしたが、あとで先生から聞かされたのですが、東大医学部に進学した同級生が、「貴信の方が頭良かった」と言っているってね。
小学校の時は、保存容器にご飯4合を詰めて持たせていました。
昼休みが終わるまで、1人で食べていたそうです。
私も含め、埼玉栄高校の山田先生も、(前師匠の)貴乃花親方も、熱心な人ばかり。だから期待に応えようとする。それが貴信の人生。
現役の間はファンのために頑張って、これからも精一杯相撲を取るべきです。
貴信はまだまだやれる。だから横綱を目指さないといけない。
優しく見守り続けた母・純子さんの思いとは?
今まで生きてきた中で、一番幸せな日になりました。
心からおめでとうと言いたい。
会場には初日から通い続けていました。勝ち越しを決めた日、周りに気づかれないように、車に乗ってからそっと私を呼んでくれたね。
「おめでとう」って伝えることができて嬉しかった。
相撲中継で、いつも「あの頭ひとつ分(身長が)低いのが、貴景勝です」って紹介されるたび、胸が締め付けられました。
死ぬまで言われるのかな、申し訳ないなあ、私の家系が小さかったから似たのかなと。
小さい頃から、ぶら下がり健康器で「寝る前に10秒!」とか、一生懸命やっていたんですけどね。
おなかにいる時から、強い子に育ってほしいと総額で70万円くらいの教材を買って、胎教もやりました。
2才からは、(計算トレーニングの)カードも見せたり。
私は何も特技が無いから、普通大学に行って働きました。だから子供には、特技を見つけて伸ばしてあげたいとの思いでした。
でもスポーツで食べていくのは、ハナから無理だと決めつけていた。
勉強して良い大学行って、幸せな家庭を築いてもらいたいというのが希望でした。
本当に何でも、一生懸命頑張る子でした。小学1年生で塾を3つ掛け持ちして、宿題が追い付かなくても夜中の1時まで勉強していました。
小学生の時は、空手だけじゃなくてサッカーも野球も水泳もやっていました。
サッカーは全部1人でドリブルするから試合にならなかったけど(笑)。
空手から帰宅し、ご飯を食べてから勉強。でも体調を崩すなどストレス症状が出て、もう勉強はやめようって。
それからサポートに徹しました。
相撲を始めてからは体を大きくするために毎晩、肉を1キロ買って来て、味もトマト、チーズ、キムチと変えながら、ちゃんこ鍋を作りました。
量が多く、最後は私が口に放り込んでいたのが懐かしいです。
あの子は私たち両方に喜んでもらいたいと思って、ずっと頑張ってきました。
今も、頭から当たるから心配だけど…。
でも貴信を見て、小さいから相撲は無理だと思ってる子も、チャレンジしてほしいなと思います。
愛される力士になって欲しい。
場所中、母・純子さんが送ったLINEに貴景勝は?
母は15日間を振り返り、貴景勝が終盤戦、白鵬と豪栄道に連敗し4敗になった時には、貴景勝の体が、重圧でガチガチになっているように感じたといいます。
心配のあまりつい、「(大関昇進は)もういいから」というLINEを送ってしまったそうです。
追い詰められてプレッシャーと戦っている息子を見て、いたたまれない気持ちになったのでしょう。
しかし、そのメッセージに対して、貴景勝から母のところに返って来たLINEには、「大関になる」という力強い言葉が書かれていたのでした。
貴景勝は前半戦に2敗した時に、「もう終わった」と思ったそうです。
それは悪い意味で投げやりになったのでは無く、ただ単に自分の実力がまだまだ足りないんだから、もっと強くなるしかないのだから仕方ないと。
しかし、大関取りというチャンスは何度も来るわけじゃないし、せっかく巡ってきたチャンスをそんな簡単に捨てていいのか?と考えたそうです。
そこから開き直り、自分の思う100点の相撲をやり切ろうと腹をくくったといいます。
1月場所の千秋楽に豪栄道に負け、大関昇進を見送られてから、早く3月場所になって欲しいと思ったそうです。
3月場所の千秋楽は、絶対にこんな終わり方はしないと思わせてくれたほど、不甲斐ない一番でした。
大関取りの15日間は自分との戦いでした。
期待に応えたい気持ち、モノにしたいという重圧、それも全部受け止めてありがたいことだと思って臨みました。
自分に打ち勝つためには、小学3年から相撲をやっていた自分を思い出し、強いお相撲さんになりたいと思っていた「自分の原点」を思い出すようにしていたそうです。
大関昇進を確実にする10勝目は千秋楽になりましたが、母の純子さんは、「最後まで主役を張って、逆に『もってる』。ドラマを作って凄い子だと思います」
と誇らしそうに目を細めていました。