昨年の11月場所で初日から4連敗を喫し途中休場をし、場所後に横綱審議員会が「激励」を決議し、進退をかけて臨む場所となった1月場所。
初日から3連敗を喫し、ついに引退の決断を下し、約17年間の土俵人生に幕を下ろすこととなりました。
横綱・稀勢の里、1月場所に再起をかけ臨むも、初日から3連敗で引退!
昨年11月場所を途中休場した後、冬巡業を休場した間も地道な基礎運動を繰り返して、全身を鍛え直し「人とやる稽古も自分と向き合う稽古もある。体を見つめ直すことができた」と、毎日懸命にトレーニングを続けてきました。
番付発表の後、部屋の大関・髙安との稽古を皮切りに、教習所時代の同期の幕内・琴奨菊と十両・豊ノ島との3人での申し合い稽古でも精力的に汗を流していました。
場所前に行われる二所一門の連合稽古では関脇の貴景勝との三番稽古で8勝1敗と手応えを感じさせるほど、体も動いていた様子で、
「非常にいい流れでやれた。思い通りの状態に近づいてきている」
と話していました。
しかし本場所が始まりいざフタを開けてみると、初日の御嶽海戦、立ち合いから左の差し手がのぞくも、差し切れず、右から巻き替えられてもろ差しを許し寄り切りで敗れました。
二日目の逸ノ城戦は立ち合い頭から当たり突き押しを見せましたが、いなされ突き落とされると土俵に落ちました。
初日からの2連敗で引退を決断するかと、マスコミも色めき立ちましたが、まだ稀勢の里の心は折れておらず、三日目も出場をすることになりました。
迎えた栃煌山戦、立ち合い思い切って当たっていくも、栃煌山に立ち合いからもろ差しを許し、一気に寄り切られ土俵を割りました。
土俵を割った後、小さくひとつうなずいた様にも見え、もうこれで土俵を去る覚悟を決めた様に見えました。
引退はいつ決断をしたのか?引退の理由は?
三日目、取組を終えるとそのまま田子ノ浦部屋に直行し、約1時間半ほど師匠との話し合いの時間が持たれました。
実際は、話し合いと言っても、「引退を決めた」稀勢の里が、師匠に「引退をさせてください」と申し出に行き、師匠は普段から我慢強い稀勢の里が自分の気持ちを伝えてきたことに対し、もう気持ちが変わることはないと判断し、その意思を受け容れたものとなりました。
引退の理由となったのは、直接的には自分の相撲が相手に通じず、白星を上げることが出来なくなったことにありますが、その原因はやはり新横綱の場所で負った左大胸筋の怪我が完治しきらず、左からの強烈なおっつけを武器として駆け上がってきた稀勢の里にとっては、この怪我により左からの攻めが思うようにできなくなったこと、それにより、相撲全体のバランスを欠いたことが大きかったと思うのです。
稀勢の里の相撲人生は試練の連続でした。
あと一歩のところで1勝が足りず、何度も優勝に手が届かなかった大関時代、ようやく初優勝を果たし横綱に昇進するも、新横綱の場所で負った左大胸筋の大怪我から続いた、横綱としての苦難の日々。
横綱としては納得のいく成績が残せなかったかもしれません。
しかし、白鵬の連勝記録を63でストップさせたり、なかなか手の届かなかった初優勝を、ようやく一昨年の1月場所で決め、仕度部屋で流した涙…。
どんな時も一途に相撲道に打ち込む姿は、いつもファンの心に届いていました。
横綱としての稀勢の里というよりも、愚直に道を究めようと努力していた稀勢の里の姿勢が、ファンの記憶に色濃く残っていることは間違いありません!
稀勢の里の通算成績は800勝495敗98休でした。
すでに年寄「荒磯」の名跡を取得しているため、今後は荒磯親方として、田子ノ浦部屋の部屋付き親方として、後進の指導にあたる予定です。
思うように体が使えず、正直悔いの残る終わり方だと思います。
しかし、ファンは稀勢の里から努力する生き様の尊さや人間の喜び、哀しみなど、たくさんのことを共感させてもらいました。
稀勢の里が耐え忍んでつかんだ初優勝で流した一筋の涙は、決して忘れることはないでしょう。
第二の人生が幸多いものになることを願ってやみません!